はじめまして。ねむです。
20代で会社を退職して早5年。今はフリーランスとして生きている30代ママです。
今は時間と場所にとらわれずにある程度自由な働き方をしています。
子どもたちはだいぶ大きくなって子育て時期は少し落ち着き、比較的自由にさせてもらっています。
現在わたしがやっている本業は、
- 企業さまのWeb系コンサル&アドバイザー(顧問)
- Web系の制作&運営代行業
- とあるニッチジャンルの物販ビジネス
といった感じで、どれもコネ?ありきのお仕事です。
そのほか、副業で当ブログ運営やXでのアフィリエイトをしています。
フリーランスとはいえど、収入はある程度安定している方だと思います。
結構色々とやっているように見えますが、さほど時間はとられていません。
なので会社員の頃よりも自由な時間と心の余裕を手に入れて、そこそこ幸せに暮らしています。
ここからは、わたしが今までどんな風に生きてきてこうなったのかと、
副業ブログなので「わたしとお金」に関する読みものとしてまとめてみました。
お暇を持て余していてわたしに興味のある変人さんは、ごゆるりとどうぞ・・・
無駄話多いし長くなりますよん
わたしの生い立ち
家庭環境最悪の少女時代
埼玉県のド田舎の、お金はあるけど夫婦仲の悪い家庭に長女として生まれました。
きょうだいは、3つと5つ年の離れた妹がいます。(あとから弟が1人増えますが)
小さい頃の夢は、少女あるあるの漫画家でした。
近所に絵を書くのが上手なお姉さんがいたおかげで絵を書くことが趣味となったからです。
よく祖母の家に預けられていたおばあちゃん子で、母に愛されて育ったという記憶はあまりありません。
わたしの両親は建築関係の学校で出会い、父の実家である埼玉へ嫁いできた母はたぶんデキ婚?で当時20代前半で私を生んでくれましたが、結婚前は東京駅にある大手企業に勤めていたそうなので、「田舎から出ていきたい」が母の口癖でした。
そんな私が小学校に上がる頃、父はその田舎に大きな家を建てて、祖父が創業した会社を引き継ぎ代表となり、家族経営の会社なので母が経理を担当することとなりました。
昔なので、お給料計算は手でお札を数えます。
小学生だった私は、そのお札の束を数えてお給料袋にいれる手伝いをしていました。
このおかげでおそらく私の金銭感覚はおかしいことになったのでは?と思っていたりします。
従業員さんは10人くらいいましたが、一番新人の人で月給27万円くらい、ほかの大人は大体40万円くらい、歴の長い人だと50~60万円くらいだったので、世の中それが普通のお給料だと思っていたんです。
これ、30年弱くらい前の話、、と考えると物価とかもっと低かったでしょうから相当良いお給料ですよね。
良いもの食べたり高級な服を着たりなどなかったし、欲しいものがあっても買ってもらえなかったり、決してお金に関して甘やかされて育ったわけではない(むしろケチくさかった)けど、今思えばそれなりに裕福に育ったんだろうなと思います。
やりたいと言った習い事は、ピアノ、お習字、そろばん、スイミングとやらせてもらえたし、小5から塾にも通わせていただいて、当時は頭も賢くなれました。(週5で習い事に通うような少女時代でした)
でも、次第に両親の仲はどんどん悪くなっていき、ついに私が中学2年生の時に離婚して母が家を出ていきました。
子供3人置いて。
毎日怒鳴り合いで母は泣いている姿ばかりだったので、「もう離婚したら?」と私が言ったのがきっかけだったと思います。
成績にうるさかった母がいなくなり、中学2年から成績はダダ下がり。
なんとか県内有数の進学校である高校へ推薦入学するも、偏差値の高い授業についていけずに人生初の挫折。
みんな医大とか国立大とか受験するなか、全校生徒のうち5%以下の「就職」を選びました。
勉強もついていけなかったしやりたいこともこれといって見つけられなかったのもありますが、この高校生の時期、父と馬が合わず、出て行った母の元へ籍を移りました。
シングルマザーとなってパートで働く母のところにいったので、大学費用なんて出せるワケがないし就職でいいや。という感じでした。
19歳で家出
私が18歳のときに母が再婚。弟を出産しました。
この頃、下の妹2人も母の元へ移籍。
なぜか覚えていないのですが、私はすぐ就職はしなかったんです。
高校を卒業して2か月くらい経ったとき、「やっぱり大学に行きたい」とまたなぜか思い直して、埼玉から代々木の代ゼミに通うことに。(たぶん費用は父)
・・・・そしてしばらくして。
そう、東京は誘惑がいっぱいです。楽しいんです。
勉強するといって通っているうちに、なんと遊んでしまいました。
彼氏もできました。(どうでもいいけど初彼は高校生の時だったのでこれは2人目)
それに薄っすらと気づいたのか、母の干渉がうっとおしくなってきて・・・
19歳の夏に初の家出。
といっても、「〇〇ちゃん家にしばらく泊まる!」とちゃんと言って無理やり許可?は得た感じです。
1か月くらい、代ゼミで知り合った女の子の一人暮らしの家に居候させてもらいました。
出戻りして大学生デビュー
代ゼミで知り合った1つ年上の彼氏がすごく合理主義者というか、哲学的思考の持ち主だったんですが、その彼氏にそうしたほうがいい言われ、籍を元いた父親のところへ戻すことになります。
父は籍を戻すことを条件に、大学費用を全額出してくれるという感じで、私は東京のとある大学の寮に入ることになります。
このときわたしは20歳。2年遅れの大学デビューでした。
頭の良い大学ではありませんが行きたかった専攻の大学にも行けて、
女の子だからきっと一番かわいい時期?で、人生ルンルンでしたね。
彼氏は別の大学へ進学して会うことが少なくなり心配になったのか、連絡が過度にくるのがうっとおしくなってしまいまして。(私は束縛されるのが嫌いなタイプ)
結果的に私が振ったのですが、なぜか「お前俺と別れたこと絶対後悔するぞ」と言い残されました。
別に後悔はしていませんが、のちに彼は最大手へ就職してエリートになっていましたね。
そして、人生どん底へ
結婚詐欺に会う
大学1年の秋ごろ、寮生活が嫌になってきてバイトしながら都内で一人暮らしを始めていました。
この頃パソコンでするオンラインゲームにハマっていて、ゲームで仲良くなった男性が東京にくるということで会うことになります。
某有名国立大学に通っていると言う1つ年上の男性でした。
顔は好みではなかったけど、中身に惹かれるところがあってお付き合いを始めることに。
彼は西日本在住の人でしたが、時々会いに来てくれて、私の家にしばらく泊まったりしていたんですよね。
「大学は行かなくて大丈夫なの?」と聞いたこともありましたが、あまり授業がないから大丈夫とか、そろそろ行かないとヤバいとかそんな返答だった気がします。
・・・・・・
大学生2年の春。わたしは妊娠しました。
で、ここで告げられる真実。
彼は大学生ではありませんでした。
年齢は詐称してませんでしたが、
仕事はしていませんでした。
・・・・・・
わたしはまだまだ子供で、相当馬鹿だったんです。
恋愛って人の頭を悪くさせますよね。
でもその時は、もうなんかよくわからなくなっていました。
つわりもひどすぎて、数時間おきに嘔吐を繰り返す日々。
思考停止。
大学は中退。
彼は責任?をとってくれて、彼の実家へ引っ越し。
7か月目までつわり嘔吐に苦しみ、そして冬に出産。
・・・・・・
彼も知り合いのツテで仕事を始めました。
わたしは働けないので、彼の収入だけで月20万円くらいだったかな。
子供の頃に知っていたお給料とは全然ちがう。
初めての貧乏暮らし。
意外とお金ってもらえないんだなぁ。と知りました。
.
でも、生まれてきた娘を見たら愛おしくて。
ここでわたしは頑張っていこうと決意。
・・・・・・
その年の秋。
「いってきます」と仕事へ行った日をさいごに、
彼は私の前から消えました。
離婚と出戻れないシンママ生活
何があったのかは、言葉にするのって難しいし、この頃の記憶があまり鮮明でないから書けません。
ただすごく精神的なショックを受けて、数か月間寝たきりになりました。
寝たきりでも赤ちゃんに添い寝おっぱいをあげていたんだろうな。
義母が面倒を見てくれていたことも助かりました。
でもわたしが何とかすこし元気になった頃、すぐ離婚。
私の両親どちらにも頼りたくなくて(帰りづらくて)
なんとなく、どこにも戻れない籍だった。
親のお金も散々無駄にして、こんな結果になって。
自業自得だ。
娘と二人で生きていこう。と泣きながら決意。
埼玉には戻ってきたけど自分で本籍をつくりました。
元旦那との生活費で貯めていた貯金50万円くらいを頂いてきたので、それをもとに部屋を借りて、まだ1歳にならない娘と二人暮らしを始めました。
で、保育園に預けて働こう!と思って市役所へ行くと、
働いていないので保育園に預けることができないらしい。
え・・・は??
じゃあどうしたらええねん!!って感じですよね。笑
保育園に預けれなければ働けないのに、働いている証明書がないと保育園に預けれない。
っていう仕組みなんですよ、この日本。(※一応、求職中なら申請も出せるのですが、優先率は低いのです)
「働いているのにお世話してくれる先がない」
という人が保育園に子供を預けることができます。
なんか矛盾してない?意味が分からない。
・・・ブチギレ。
そんな時、ふと求人情報をみていて目に入ったのは、「託児所付きの、とある仕事」
大きい病院勤務の看護師さんとかならそういうのあるのですが、わたしは看護師免許なんて持っていないので、
他にもそういう託児所つきのお仕事を探したら・・・
マルハンというパチンコ屋さんのホールスタッフを見つけたのです。
パチ屋でなんか働きたくない!!!
と普通なら思うのかもしれませんが・・・
もう、仕事選んでる場合じゃないです。
子供養わないといけないんで、何でもやります。
という感じで、私のシンママ生活は順調に?始まりました。
体力なさすぎなので、毎日は働けませんでしたが。
家賃5万円の部屋で、子ども手当込みで月収は11~12万円ほどでした。
当時のわたしの収入内訳はこんな感じ
- パチ屋のお給料・・・月5万円(時給1300円)
- 市からの子ども手当、母子手当・・・月6万円
- 養育費・・・なし
家賃ひいたら生活費は6~7万円くらい。
光熱費が1.5万、食費が1.5万、通信費が1万、日用品に5千円。
服とか化粧品は買えませんが・・・
意外と生活できるな、超貧乏暮らし。
と思いながらこんな生活を1年くらい続けました。
実は、生活保護も受けられないか市役所へ相談に行ったこともあります。
色々と面倒そうだったし、さらには冷たい事を言われたのもあって、結局生活保護は受けないことに決めました。
でも、今思えば受けなくてよかったなと思っています。
貧乏だったけど、すこし貯金も出来ました。
出戻りの戻り
2度目の〇〇
もう結婚はコリゴリや・・・
と思って、実はずっとお付き合いを断ってきた人がいました。
一度目の結婚時に西日本で知り合った元旦那の知り合いで、
その人は今度はホントの大学生(笑)
元旦那の知り合いってだけでも嫌でしたし
シンママに大学生??あほなんか?
って感じでしたし、私の好みは包容力のある年上の男性💖なので
いつもメールはくるけど、軽くあしらっていた相手です。
寂しいわたしの暇つぶしに付き合っていただいていただけ(ひどい)。
まあ、わたしは相当アホなんです。。。
そんな大学生に1年くらいかけて口説き落とされて、付き合い、即結婚しました。
また西日本かい!!!戻ります。😿
再婚&つづく貧乏生活
で、今度は詐欺じゃありませんでした。
彼は大学4年生だったので、結婚するとなったときは新卒直前でした。
この時、私の娘は2歳。
彼のことを本当のパパだと思ってくれています。
彼との子も出来て、トントンと再婚生活が進んで。
でも、新卒のお給料は手取り17万円。家賃は9万円。
田舎ではない彼の実家の手助け目当てに近くにマンションを借りたので
この地域で家族4人暮らすにはちょっとしんどい額でした。
子どもも生後6か月にならないと保育園に預けれないし(当時の決まり)、
私も働けないので、生活費を削るほかありません。
めちゃくちゃ切り詰めた生活をしていました。
成人男性がいるだけで食費が()
でも人って、貧乏でも生きれるんよ・・・(再び)
ただ、貯金はほぼできませんでしたね。
月の収入 | 月の支出 |
---|---|
・旦那の手取り 17万円 ・+α | ・家賃 9万円 ・光熱費 2万円 ・食費 2万円 ・通信費 2万円 ・日用品 1万円 ・娯楽費 5千円 ・ガソリン代 5千円 ・旦那の奨学金返済 2万円 ・旦那のお小遣い 3千円 |
※2人目の出産費用は、出産育児一時金の40万をOverした分は私の貯金で捻出。
※当時、格安SIMが普及していなかったので通信費高め。
この時もまだ化粧品が買えませんでした(笑)
まじで化粧水すら使ってなかった時期が2年くらいありました。
さすがに、臨時支出や色々あるからこれだけじゃ生活できなかったので、
旦那が仕事から帰宅したあと、子供を見てもらって
私は夜の街へ働きに出ていました。
やっていたのは、高級キャバクラの中で働くウエイター。
ここではさすがに化粧をしましたけど、昔買っていたコスメで。
収入は時給3,000円×4時間。を週1~2回くらいかな。約月5万円。
子育て中で体力なかったのでそれが限界でしたね…
それも生活費や旦那の奨学金返済で消えていきました。
そう、うちの旦那ちゃん。奨学金という名の借金があったんですよ!!
その額、200万円なり。
負担でけぇぇ~~
育児ノイローゼ発動
お金がないってツライ
お金がなくても生活はどうにかできるけど、
お金がないと人って心が豊かになれません。😿
つくれる料理の品数は少ないし、電気はつけっぱなしにできないし、お風呂のシャワーはこまめに止めないとだし、冷暖房はつけれないし、旦那に渡せるお小遣いなんて3000円しかないし・・・
お金のことが原因で色々な騒動がおきます。
お恥ずかしながら、わたしは家事もそんなに得意ではないので
育児が大変で家事がおろそかになっていると怒られますし
喧嘩にもなります。(うちはもともと亭主関白です)
お金がないと人ってイライラしちゃいがちなんです。
夜の街に働きに出ている間に、浮気未遂もされます。
不仲だと育児もつらいです。
知り合いも誰もいない土地で、家事と育児だけの日々。
気が付いたらノイローゼになっていました。
フリマアプリ登場
そんなとき、時代はちょうどスマホアプリが世の中に出てきた頃で。
メルカリや、フリル(現在のラクマ)が登場したのです。
そこでハンドメイドアクセサリーを売っている人を見かけました。
「これって家でできるし、わたしにもできるかも?」と
単純な私は思いつきで、フリマアプリを始めたのです。
これがわたしの初めての在宅ワークでした。
この経験が、私の副業の第一歩だったのかもしれません。
われ、はたらく
パートに出る
下の子が6か月になったので、保育園に預けてパートに出ることにしました。
旦那のお母さまが自営業をやられていてそこに勤務していることにしたので、今度はスムーズに保育園に入れてもらえました。(チートすぎる)
が、パート先は1週間ですぐクビになりました。(笑)
いや~、乳幼児の男の子の発熱頻度をなめていましたわ。
わが子、よわすぎた・・・でもそれが普通なんですけどね。。
何社かアルバイトをクビになりつつ、たまたま運よく自宅近くのとあるメーカーさんにフルタイムのアルバイトとして雇ってもらうことができました。
当時の時給900円、朝9時~夕17時。
内容はWebデザイナーアシスタント。
仕事って、とっても楽しい!!(涙)
まーじーで、育児の何倍も楽です。最高です。
仕事場へ行っているときが唯一、私が息抜きできる時間でした。
これは働くママなら分かってくれる人、多いんじゃないでしょうか?
ワンオペ育児と家事ほどハードワークなものはないです。。
この時、わたしの手取りが扶養ギリギリの月7.5万円くらいだった気がします。
103万の壁、150万の壁っていうのがあって・・・(省略)
結局、週5で働いたのでこのときに扶養は外れました。
旦那に発狂&大喧嘩する
働いている時間は同じなのに・・・
私もフルタイムで働いている。
なのに、なぜ家事育児は私だけ??
ふと疑問に思いました。
当時、イクメンとかいう言葉もなかったけど。
で、不満が爆発してしまって、ついに旦那に直談判しました。
返ってきた言葉は・・・
「わかった、手伝えることは手伝うようにする。だけど、俺は正社員で君はパートだから。」
つまり、立場が違うんだぜ☆ ってことでした( ;∀;)
うおぉぉぉぉん
われ、正社員になる
「どうせフルタイムで働くなら、正社員になるか」
「そうすれば立場一緒でしょ!!」
「旦那と平等になりたい、わたしも稼ぎたい。」
「あわよくば、家事も育児も平等に分担したい…!!!!!!」
ってことで、転職活動開始 → 運よく自宅近くの職場に決まりました☆やったね!
で、たまたま入社できた会社がなんと名の知れた会社さんだったんです。
わたしはアホで無知なので知りませんでしたが私の親世代とかだと皆さんご存じらしい。
その本社で運よく正社員として雇用されることに。
別に自分が凄かったわけでもなく、面接官のおじちゃんに気に入られて?本当に運が良かっただけです。
ついに念願の!!
これが効いた・・・のか?( ^ω^)
平日朝9~18時勤務。史上最高に頑張ってた時期。
朝7時に保育園送っていって、8時半出社。
19時に迎えにいって、買い出しして夕飯つくって。
祝日も出勤だけど月の手取りが19万になりました。
おやおやおや・・・?
そうなんです、旦那さんの手取りより多!!!!!
わたし、やっと主張権を得ました✨😿
ここからついに念願の!!我が家の夫婦平等化が始まります。
やっぱ世の中、金ですわ。笑
稼いでやっと平等を主張できるのか。。そんな気持ちと達成感でした。
(そんなご家庭ばかりではないと思いますが)
ついでに、わたしの会社が大手だったおかげでローン審査も通り、夫婦名義での家も買うことができました!
旦那の奨学金200万もこの時期に完済!!✨
会社辞める、そして転機
社会人挫折
だいぶ遅くなったけどわたし、正社員として働くのが人生初だったのです。
大きな会社で、初めての社会人経験。
数年頑張りましたが・・・
残念ながら自主退職してしまいました。
会社自体もホワイトだったのに。
3年目に昇進もして、主任だったのに😿
もったいないですよね~
原因はストレスと体調不良。
人間関係という名の荒波に揉まれ、気持ちは頑張ろうと思ってましたが身体が先に挫折してしまいました。
転職しようと転職活動もしていましたが、体調が悪いということもあってしばらく休息することに。
しようと思ったのですが・・・
専門職だったので(Webデザイン関連)後任がなかなか見つからず
家でいいので、引き続き仕事をしてほしい
と会社側から言われ、委託契約でお仕事を家で継続することになりました。
それがわたしのフリーランス(自営業)の始まりです。
この頃からちょうど世の中はフリーランスブームだったんですけど、
そんな訳なので、私の場合はなりたくてフリーランスになったわけではないんですよね。
できれば会社勤務していたかったし。
仕方なくなってしまった。という感じ。
でも有難いことに、これが今も続いている本業のお仕事のひとつです。
(当時と内容はちょっと変わって、今は顧問になっています。)
このおかげで、夫婦平等制が崩れずに済みました💦
たまたま副業も始めていた
実は会社を辞める半年前、わたしは副業を始めていました。
世の中に「副業」という言葉やブームがまだそれほど広まっていなかった時期。
なんで副業を始めていたかというと、
自分で調べたわけでもなく、お金がほしかったわけでもないんです。
本当にたまたま、「手伝ってほしい」という知り合いの知り合いからの依頼があったからでした。
つまり紹介で始めた副業です。
内容は本業に関連することで、すこしの作業+アドバイスをしてあげる感じのお仕事でした。
格好良くいうとコンサルティング的な。
それもあったので、まあフリーランスになってもいいか。
という決心がついたのもあります。
フリーになって見えた世界
視野が広くなった
会社員時代も色々経験できたのもあり、仕事内容はとっても楽しかったです。
ですが今こうやってフリーランスという働き方を始めて・・・
仕事の話し相手も相談相手もいないので常に孤独なのは仕方がないことなのですが。
会社にいたときは自然にまわってきた情報や、
会社の斡旋で勉強系のセミナーにも参加できていたのでそれがなくなってしまい。。
自分で情報収集や勉強をしないとダメなんだ。と実感しました。
フリーランスは、情報は自分でとりにいかないと終わります。
そして挑戦し続けることをやめないこと。
じゃないと、いずれ稼げなくなります。
なので、必然と視野は広くなっていくものなんですよね。
情報商材を買いだしたのも、そういうのがきっかけです。
それが自分の成長にも繋がっていると思います。
やりたいことがどんどん増える
会社員を続けていたらあり得なかったことが起きたり、新しい発見をしたりの連続。
さらなるビジネスの可能性が目の前にゴロゴロと転がっていたり、
情報も探せばどんどん出てきて、やりたいことも山積みになっていきます。
学びたいこともいっぱいあるのです。
そう、私って結構貪欲なんだなぁ。と気づきました。
フリーランスになって、新しいことをどんどん学んで吸収して収入を増やしていきたいという気持ちになれました。
会社員だったころは疲れてヘトヘトで毎日が終わっていたけど、
時間も余裕ができて、学びたいことも学べるので今が一番たのしいですね!
自分らしく、ラクに生きるをモットーに。
自分らしく、楽しく、自由に生きていきたい。
こんなこと、フリーランスになってなかったら思わなかっただろうな。
当たり前に朝早くおきて、8時台には出社して、
夕方まで働いて、帰宅したら家事育児して寝る。
会社勤務を続けていたら、平日の自分の自由な時間は夜1~2時間あるかどうかかな?
それをおかしいとも変えられるとも思わなかっただろうな。
だってみんなそうやって働いて家族を養っているのだから。
仕事しんどい、つらいって言いながらもその生活を続けるでしょう?
たまに、「あなたは行動力がすごいね!」と言われるけど
もともとは無知な主婦だったし
体調不良にならなければ会社も辞めなかったし
たまたまフリーランスになったから気づけただけなんです。
そして、多忙な頃の生活には戻りたくないって思いました。
だから貪欲に知識をつけて、自分なりに頑張っているつもりです。
好きなことをして、自分らしく、楽しく、自由に生きれるように。
「楽しく」というのは「ラク」という意味。
「ラク」=気持ちが楽で、辛くないということ。
自分のやりたいことや好きなことをして、
ありのままの自分でラクに生きていくためには、ある程度の時間とお金が必要になります。
自分の残りの人生があと何年かもわからないですし、
元気に活動できるうちに楽しめることはやりたいですし、
まだ行っていない国もたくさんあるし旅行も楽しみたい。
というか、自分のことばっかりだけじゃなく
子供たちにだってやりたいことはやらせてあげたいし、
行きたい学校には行かせてあげたいし、
旅行にも連れてって思い出や経験をたくさんつくってあげたいし。
惜しみなくお金をかけてあげられる親でありたいです。
なので、私はこれからも収入源を増やしていく努力を続けます。
.
お金と私。
お金に困らない環境に生まれたのに、
お金と人生のどん底に転落して、
そこからV字回復して這い上がってきた私のストーリーでした。(笑)
THANK YOU
長々と書いてしまいましたが、以上がわたしのプロフィールです!
最後まで読んでいただきありがとうございます✨
このブログでは、私が買った情報商材の正直レビューや副業記録、わたしが稼いでいる副業やその方法、有益情報などをお伝えしていきます!